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ようこそ、Gallery三田三のホームページへお越しくださいました。
私たち2人が、当ギャラリーのオーナーです。
どうぞ、ゆっくりとご覧いただき、お楽しみください。
〜古伊万里アクセサリー誕生秘話〜
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第1章
ぼくたち夫婦が古伊万里のかけらたちと出会ったのは、昨年(=1999年)のことです。本業のアートフレームだけで食べてゆくのはなかなか難しい昨今の状況の中、何か新しい分野を…と思っていたところ、知り合いのギャラリー『うわのそら』のオーナーから「アクセサリーを作ってみたら?」と言われ、以前から興味もあったので「まずは、作ってみるか」と始めました。
試行錯誤しながら何点か作ってみましたが、なにせライバルの多い分野だけになかなかこれといった個性的なものが出来ずに少々停滞ぎみでした。そんな時、家内の清美が「古伊万里の破片なんか使ったらどう?」とアイデアを出してくれました。
どこから思い付いたのか、特にそれまで骨董に興味があった訳でもないのに、と何やら不思議な気がしましたが、それが名案であることは確かでした。家内は、数日後には京都の骨董やさんから ホツ(かけ)はあるが幕末頃の上手ななます皿を買ってきてくれました。「ほんの少しの‘かけ’があるだけで、すごく安くなるのよ」と上機嫌でした。美しい、古伊万里の皿でした。その色合いは、ぼくがまだ20代の頃よく通った「神戸の骨董屋さん」を思い出させました。そして、5年前に神戸を襲ったあの震災のことも………。
第2章
家内の買って来てくれた古伊万里から作ったブローチはねらいどおりの出来でした。しかしこれからこの手法で作品を作って行くにはいくつかの問題がありました。
一つはたくさんの欠けたり割れたりした器が必要です。完品を割るわけにはいきません。かといって大量の割れた器などどうやって手に入れたらよいのか、ぼくが骨董屋さんに通っていたのはもう15年以上も前の話でそれ以来骨董の世界から遠ざかっていたぼくには相談できる人も近くに居ませんでした。
「やはりあの人に聞くしかない」長らくの御無沙汰を詫びつつ神戸の骨董屋さんへ電話をかけました。するとそのオーナーはぼくをちゃんと覚えていてくれました。それにもうすぐ京都で大きな骨董祭があってそこに出店されることも分かりました。
「じゃ、その時に伺います....」 数日後ぼくたち夫婦はなんとなく良い予感を感じながら京都の会場へ向かいました。着いてみるとそこは天井高い大きなホールでたくさんの古物商がブースをかまえ自慢の品を並べていました。
骨董品のもつ独特の色合いやツンと鼻をさす匂い。「なつかしいなあ」若い頃歩いた神戸の高架下の風景を思い出しながらたくさんの骨董屋さんの中を分け入った所に、パイプ椅子にちょこんと座った本当になつかしい顔を見つけたのです。
第3章
「お久しぶりです。直さん」15年の時間を飛び越えて昔のままの笑顔がありました。
ぼくはさっそく自分の作ったペンダントを見せ、古伊万里の割れた陶片が手に入らぬものか尋ねました。すると直さんは少し残念そうに「5年前なら いやほどあったのに.....」。
そう、5年前とはあの阪神大震災のことなのです。「でも思い出すのが嫌で無理に捨ててしまったの」。当然のことながら彼女のお店も大きな被害をうけ、自分でこつこつ集めた品の多くが割れてしまっていたのです。それは大変に悲しいこと辛いこと、5年たった彼女の言葉からもそれが滲んでいました。それを聞いたぼくたちも言葉をなくしていたのですが、彼女は「でも知り合いいるから聞いたげるわ」と宝塚(神戸近郊の街もちろん震災で被害を受けたところ)で骨董屋を営む御夫婦を紹介してくれました。屋号「ひじり屋」というこの店の御主人、細身で背が高くひげと髪を長く伸ばし、古布のすり切れた作務衣を着て声がデカイ、間違いなく一度見たら忘れられないタイプで一見ちょっとこわい。
この方におそるおそる事のてん末を話すと、その大きな声で「あるで〜割れたん山ほど。なんとかしょうおもておいとったんや(=何とかしようと思って置いてあったんだ)。あんたがこんな風につこて(=使って)くれるんやったら、分けたげる。」と力強いお言葉、数日後ひじり屋さんの倉庫に伺ったぼくらの前に出るは出るはバキバキに壊れた皿に茶碗に湯飲みのたぐい.....。ぼくらには宝の山に見えたのは言うまでもありませんが、有頂天でその破片を見ていると幾つものセロテープでつなぎ合わされたものたちが見えてきたのです。その時、ぼくたちはいらなくなったものを引き取るのではなく、思いのいっぱい詰まったものを託されたのだと気づきました。
「大切にしなきゃ」その日、車の荷室と心にいっぱいの宝物を詰め込んで家路を急ぐ夫婦でありました。これから開けるだろう新しい世界に思いを馳せながら.............。
−完−
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